「実現不可能な場合の手段の目的化」について

 教学の目的は信仰というものを自らのものにしていない場合は信仰を持続させることであり,そうでない場合は他者にその信仰を勧めることだと思う.変な言い方だが,自他ともに有効な洗脳のようなものなのかもしれない.先日,「実現不可能な場合の手段の目的化」というどこかで仕入れた知識(?)実感するような場面があった.残念ながら何だったかは思い出せないが,友人が言うに,いわゆる「信行学」のうち「行」と「学」は,「信」の目的であり,本来なら信を自らの中に作り上げなければならないが,それができない故に手段である「行」「学」に傾きすぎる.それが最終的に目的化し,どれだけそこで追求しても一定の位置にへばりつくことしかできない.目的化してしまった「行」「学」などいらないものだ.さらに言ってしまえば「学」など本来ならば不要なのかもしれない.足りないものを補うために必要だったそれは,不完全な「信」というコアを覆い隠してしまう包帯になってしまったのかもしれない.
 さて,後付け的だが,「行」はもちろん重要なので,それを疎う傾向がある私はきちんと考えないといけないのだろう.