世界という物語

 風呂でたらたら考えた.「死ぬ」とはいったい何なのだろう?終わること,消えてなくなること・・・何だか今日はこのことがひどく抽象的だ.「死」がつくる境界とはいったい何なのか?その外側に何があるのか?実はその境界の両側とも全く同質なのではないか?終わらない,消えるもなくなるもない,続きの続き.
 ちょっと自分が希薄になっているのかもしれない.足りない主語を補おう.何が終わるのか?人生.何が消えてなくなるのか?自分.どうもしっくりしない.主語とは何なのだろう?名前,私をなす「境界線」.それは「死」と同じ,概念.境界線の内側,外側.
 ・・・「世界」に対して,自分という存在にはどんな「意味」あるのか.「意味」=「境界」,「一つの世界」という全体に対する部分集合としての「自己」を規定する.「死」は,部分集合を集合たらしめる境界の喪失なのか.ところで,世界が私に固有のものであるなら,「死」は世界の崩壊そのものだ.恐ろしい?解放?どちらともいえない.
 絶対的なものは存在しない.生きることは,自分という基準から対象をながめること.私が何かを考え,比べ,定めるということは,何者かに相対するということだ.これを繰り返すことが,自分を広げ,大きくする.しかし,自分をなす部分集合の枠をどれだけ大きくしたとしても,決してこの立場から逃れることはできない.相対はどこまでいっても相対なのか.ぐだぐだぐだ・・・
 ああそうか.確かに,「世界」は「物語」だ.物語は存在するだけでは何の意味もない.「読者」がいて初めて「意味」が生まれる.そして,読者ごとに固有の「意味」があり,その広がりも異なる.しかし,「自己」はあくまで物語の「登場人物」であり,世界の一部.だから,純粋な「読者」つまり世界から超越した「観測者」などは存在しない.その意味で,「読者」という立場の自己を規定する「境界線」は抽象的なもので,それが「名前」であり,例えるならば脚本で示される「何時,何処で,誰が」の部分なのだろう.だから,「自己」はあくまで脚本に示される物語を読み取った後に残る「意味」にある.
 しかし,問題は,名前という境界線.これがある以上は「私」が存在し,自己は相対的存在であり続ける.ここで,境界線を自分で取っ払うのが「悟り」なのかもしれない.名前が規定する「私」という自己を超えることでこれまで読み取ってきた「物語」の意味と一体化,あるいは帰化する.最早これは私の宗教といえる部分だが,一体化する「物語」は「物語」そのものではなく,自分が読み取ったその「意味」なのだと思う.そして,「死」とは境界線を喪失することでありその意味で「悟り」と似ているが,物語を読む途中で否応なく帰化せざるを得ない点で,完全に異なる.だから,一生懸命に物語を読む=生きようとするのではないか.
 以上,たらたら終わり.


相対的存在であることによる苦しみ:他人との比較,果てることのない起源の追求などか.