理性と感情の調和

 分析だとか理解という字面を見ると「分」と「解」という文字が含まれていることに気付く.よく言われるように,このような行為はある事象を都合よく分解する作業である.恐らく,これまでの私にとっての「成長」や「学習」という行為は,「世界」の無限分割だったのだろう.世界は黒か白かの一方で表現することができるドットにまで分割される.その結果,本来は「1」であった世界が微少なドットの集合に変質してしまう.「理性」で表現が可能であるとは,そのようなことだと思う.
 私の場合,白か黒のドットの集合に変化した世界が濃淡ある灰色をしていることが判断にとって非合理的に思え,本来の世界に対して「小世界」という下位ブロックを想定した.自己の矛盾する人間性,自分の中でエミュレーションすることしかできない他人,それぞれを本来存在する世界の下位ブロックとして捉えることで,客観的な判断を行おうとした.しかし,これらはやがて独立し,それぞれの小世界が意見を述べるようになった.多重人格的な感覚.
 バイト先の上司・Sさんにそんな話をしたところ,「物事を突き詰めて考えすぎ,そこまで考えなくても,(突き詰めて考えていた対象について)したいよういにすればすむのではないか?」と「感情」の大切さを指摘された.私もそう思っていて,このようにばらばらになった「私」を,さらなる「学習」によってこれからは「統合」するべく「成長」したいという思いを話した.結局,学習だとか成長という「理性」を重んじるのだが,「統合」というのは重要なステップアップだと思っている.
 それにしても,感情とは偉大なツールだと思う.それだけ突き詰めて分割された世界を気に入るか否かという一点で表現できるのだから.Sさんは,「偏りすぎているからバランスをとるべきではないか?」と言ってくれたが,まさにその通り,こちらの開発も怠ってはいけないと気付かされた.
 以上から,「理性」と「感情」が統合,というより「調和」したとき,視野が開けてこれまで分割してしか捉えることができなかった世界が等身大で見えるようになるかもしれない.理性で捉えるのでも感情に従うのでもなく,「調和」に物事を見いだせるようになりたいというのがこれからの私の目的だ.