長月の初日に想う

出口なのか入口なのか@大嵐


 朝定時に研究室へ.午前中はマクロ経済学の勉強,午後はパソコンいじり.フォントを変えて非常に快適になった.さらに,昨晩変更した携帯電話のメールアドレスを必要最低限の範囲で通知した.仕事を再開して20時前には帰宅.友人と風呂へ行き,食事をする.以下はそのメモ.

法華経について友人の一言

 釈迦の言葉や行動を書きとめた記録に法華経と名前をつけて経典とした.その教えに帰依するという意味で南無妙法蓮華経と唱え,それをかざして突き進む.それが信仰なのだと友人が言った.

立場に互換なし,でも同じ

 一段高いところから他者を見下ろす彼と,最も底から全てを見上げつつなお全てを見下そうとする私.上下を入れ替えれば全く同じことをしているに過ぎない.符号を変えることは簡単だ.「無知の知」を誇るのは見下すことと同じで,自分が最高と思っている人間よりもなお始末に負えない.

悪人正機についての一考

 真宗には悪人であるからこそ救われるという教えがあるが,つまるところ悪人でない人間などいない.それに気づかないのは無邪気というか,誤解を恐れずに言うとまだ子供なのだろう.それが,成長とともに自分が悪人であることを知り苦しむ.しかし,その果てに見る解放がたとえるなら極楽浄土なのかもしれない.そうすると,その境涯に行き着くにはまず悪人という過程を踏む必要があると言える.だから,必要なら迷いに迷うこともいいのかもしれない.


 それにしても,最近は人間が弱くなった.人と喋ることができなくなった.正確には,元々下手だった間を取るという行動がわからなくなってしまったためだろう.だから,すでに自分が間を確保している相手か,相手が自分に対する間を理解している場合は問題なく話せると思う.歩き方がわからなくなったというか,つくづく不器用だ.ああ,つかれた.