カラオケで考えたこと

『愛』について

 ゼミ後に大学を脱走してバイト先のカラオケ会に合流.今日は眠いやら考え事にふけるやらであまり歌わなかった.ところで歌詞を見ていると,『愛』という言葉がかなりの頻度で見られたような気がする.歌う歌によるのだろうけれど,私が聴いたり歌ったりする曲ではあまり耳にしない単語だ.広辞苑を要約してみると,
①慈し合う心,思いやり.
②男女間の慕情,恋.
③かわいがること,大切にすること.
④好むこと,めでること.
⑤愛嬌,愛想.
⑥おしむこと.
⑦愛欲,愛着,渇愛(仏教でいう十二因縁)
アガペーキリスト教でいう神の愛).
⑨愛蘭(アイルランド).
ということである.『愛』,知らないというわけではないと思うのだけれど,よくわからない.①は理解できても根付いておらず,②は経験無しで想像もつかない.自分にとって一番近い『愛』は,欲するものに対する盲目的な執着つまり⑦だが,どうやら私は『愛』というものを遠ざけているようだ.その結果が『愛』という言葉が頻発する歌詞への反発であり,または①②のような自分の姿なのかもしれない.

主観の収束発散する全一な点にて日々モデリング

 あと,歌詞を読む気にさせる曲と,歌詞を読むのではなくとにかく聞かせる曲がある.前者は理性的な自分に,後者は混沌たる自分に訴えかける力があるような気がする.私の勝手なイメージだが,理性とは何らかの収束点を見出そうとする姿勢であり,混沌とは発散である.しかし,全一とかそんなことを考えると,同じことだ.収束も発散もある「一点」で無限に繰り広げられる現象だ.一の無限分割も無限大も,同じことだ.ところで話は飛ぶが,人間の究極的な目的は何かと考えたとき,それは「自らを知る」ことにあるのではないかと思う.そのために文章を書き,かたちを創り,音を奏で,理論を組み立てて因果関係を解明しようとする.どのような活動も人間というものを表現する一種のモデルなのではないか.この「一点」の中に広がる無限の可能性の中で自分の姿を明らかにしようとするモデルを日々作成しているというのが,私が生きていることなのかもしれない.さて,「一点」に立脚する自分の姿はあくまで主観的なもの.では,無限に存在する「一点」を集約する客観性という「一点」は存在するのか.そのような高次元の「目」を持たない私にとって,これはもう,信じる信じないの領域だ.これを知るつまりモデル化しようとすることは私にとっては空の星に手を伸ばすような,雲をつかむような思いがする.でも,星は手が届かないからきれいなんだろうな.

家庭教師で考えた「方便」

 脱線しすぎたが,今日のカラオケはそんなことばかりを考えていた.ファミレスでおしゃべりをした後に家庭教師へ.今日は化学の「酸と塩基」.だいぶ時間がかかってしまったが,理解してもらえたようで,うれしい.明日はテストということなので,頑張ってほしい.そう思うのも自分のためか・・・今日,思ったのだけれど,嘘をつくことは道徳的に悪いことかもしれないけれど,必要ならこれからはどんどん嘘をつこうと思う.私は比較的裏表ない人間だと思うが,それは思ったことをわりかし正直に口にしてしまう傾向があるためだ.もっとも,これまでもことあるごとに嘘はついてきたが・・・言い訳と嘘はかなりのもの.では,ここで問題になっている事柄は「嘘」というより「方便」といったほうが正しいかもしれない.仏様に言わせると「方便」は「慈悲」なのだそうだ.もっともこれは教えを理解できない衆生の救済を目的に説いた一時的な仮の教えのことなのだが,ここでは自分の方針が欲しいだけなので,「方便」ということにしておこう.とにかく,楽しく有意義な人付き合いができるように努力したい.