「結果を期待せずにやる」という概念を打算的に説明せざるを得ないことについて

 中日新聞1月28日文化面に玄侑宗久氏の『相補的な見方 下 結果を期待せずにやる』という表題の文章を見つけたので読んでみた.結果次第でやるやらないを決めるのではなく,「もうからないけどやる」「なんだかわからないけど,やる」という相補的な見方,いわば「ややこしさ(≒純粋,混沌,自然・・・)」が必要だという提言である.今回もとても面白い話だった.
 ただ,私として最も興味深かったのは,「打算抜き ワケも不要 そこから何かを得る」という見出し(?)である.この文章は「結果次第で行動を決定する日常では得られないような何かを得るためには,打算も理由もないことをやる必要がある」という意味なのだと思うが,これはまさに打算ではないか.本文は「(合理的つまり説明可能な解釈の裏に潜む無意識の)霊がなくても十分楽しいものにしなければならない」(括弧内は筆者注)という表現で結ばれているので,この見出しは恐らく編集の段階で付けられたものではないかと思うが,このように説明しなければ「結果を期待せずにやる」という意味(!)など理解されないだろうという配慮なのかもしれない.意味などなくて良いのだが,それはどこまでも求められる宿命にあるようだ.