新三河物語

 本日読了。私なりに一行に要約すると、安祥譜代である大久保党の人々が徳川家への忠誠心ゆえに受難しそれに耐えるという話。私は北信の出身だが、三遠を故郷のように思っているので、尾張大高から遠州二俣までローカルな地名が現れるのが嬉しい。また、信州の佐久郡と諏訪郡天正壬午の乱の舞台として出てくるのも楽しい。
 さて、わずかだが感想を書いておく。自分の人間性の浅さのためなのだが、登場人物にほとんど共感がわかなかった。ただし、これはむしろ面白いことだと思う。大久保党の面々はほぼ例外なく主君思いで家を大切にする。思うに人間の鏡のような人々であり、それゆえになのだが私にはピンとくるものがない。一方で、大久保党に対する敵役として本多正信が登場するが、様々な場面で悪人として描かれているのにも関わらず、奇妙なほど人間性が感じられない。まるで機械のようだ。徳川家康についてはうまく表せないが、この人物はいわば神輿のような存在で、松平信康の自害に関わった家臣に対する心情を除くとほぼ生身の人間として存在していないように思える。ピンとこない。
 だが、本多正信徳川家康については、ヒラの私に分からなくても当然かなとも思う。恐らく、謀臣は無私であることが必要で、主君は無私であること以上でなければならないのではないか。唐突ながら、法人格とは生の人間の不完全性を補って忠誠心の対象を代替する機能を持つと私は思っているが、法人格ではなく生身の人間が大半の部下から忠誠心を得ると言うことは非常に大変なことだろう。そんなすごい人のことを私が理解できるはずがない。
 繰り返すが、私はヒラだからわからない。私が共感できるのは、作中で無能かつ保身に走る小人物として表現されている鳥居元忠平岩親吉などである。なお、両名は大久保党の足を引っ張りながらも、主君に(恐らく他の功績を)評価され栄達している。主君は、失敗した部下を全否定することはできない。ところが、生身の人間にとってこの赦すということは非常に大変なこと。大久保党の面々は小人物な彼らの胸中を見通すまではよいが、ついに赦さなかった。同僚という立場でありその必要がなかったからだろうけど、この赦さなかったところには人間性を感じる(ピンと来た)。
 ・・・どうも文章がまとまらない。本当に感じたことだけだがまとめると、この作品に限らずだが私が登場人物に共感を感じるためには、修養が必要ということ。いずれはレベルの高い人々にも共感を持てるようになりたい、言い換えると「人間性」を感じられるようになれればと思う。
 なお、上述の鳥居元忠平岩親吉だが扱いが大久保党に対してひどすぎると思う。また、どの人物もだが一つの場面や性格が強調されすぎている気がする。あまりピンとこないのはそんな理由もあったのかもしれない。

新三河物語(上) (新潮文庫)

新三河物語(上) (新潮文庫)

新三河物語(中) (新潮文庫)

新三河物語(中) (新潮文庫)

新三河物語(下) (新潮文庫)

新三河物語(下) (新潮文庫)