器としての人間

その先に空が@為栗


 「器が大きい」などという表現は良く聞くが,これは包容力の大きさを指している.しかし,詰まるところ人間は器そのものなのだろう.健康診断でレントゲンや心電図の検査を受けながら,このとき自分が肉体を持っていることを再確認させられた.もう少し考えると,自己という人間は肉体を基本として存在しているというより,器としての肉体を媒体として存在している非常に抽象的なものなのだという気がしてきた.
 さて,器は何かを入れるためのものだ.それが何なのかという問いが,自己を見出す一助となるように思われる.器が壊れたときこぼれてしまうものなのか.もしこぼれてしまうようなものなら,それは精神とでもよばれるものなのだろう.肉体の死は恐らく精神と定義する存在の消滅を意味するだろうから.だとすると,これは違う.肉体と精神で一つの器なのだ.
 しかし,それでは器の中身は何なのか.意志?それも一つの答えだろう.意志とは方向性であり,器から器に引き継がれる可能性があるものだ.しかし,それは生なものではなく,想像の中にあり創造の結果である概念でしかなく,別の器にとっては何の意味もないものかもしれない.価値とは固有のモノサシだから,器を変えてしまえばそこでは計るどころか認識することすら困難だろう.
 器の中身,恐らくは空っぽなのだろう.「人生に意味はない」,そのとおりかもしれない.ただ,「空」だからこそ,無限であれい永遠なのだ.こぼれるとか消えるとか引き継ぐとか,そんなのとは全く関係のない最高の次元.かたちあるものはいつかなくなってしまうが,私は空に何でも好きなだけいつまでも託すことができる.意志の先の「空」,それが「私の真理」なのだと思う.
 器である肉体や精神を媒体にして意志の先に見いだされる真理こそが器の中身であるべきだ.そして,それが空に帰することを認めさえすれば,器がなくなっても無限で永遠である.器に盛るべき空をモノにする,それが生きることなのだと思う.