わたしのかたち

 おはようございます.以前,何度かお誘いをいただきながら何かと理由をつけてお断りしていましたが,そのことを率直にお伝えしたいと思います.私は,私の信じる自由のために他人との断絶および自己の閉塞を願い,その実現のために,自身に都合が悪いすべての存在を「自由の名の下に」切り捨てました.その結果が,人を避けることをやめられないくせにどうしようもなく人を求める無様で滑稽な今の私の姿です.


 ところで,私の信じる「自由」について語らねばなりません.それには少し昔の話をしなければなりませんが,しばらくご辛抱ください.1年半ほど前,あるつまらない失敗をきっかけに私は死に憧れるようになりました.しかし,自殺は自身の中に蓄積されたさまざまなエネルギーを負に固定して撒き散らす行為です.たとえるならば,本来ならばリサイクル可能なゴミを不法投棄してもはやどうしようもない環境汚染を引き起こすことと同じです.何とも身勝手な話で,私はさらにそのことにも苦しみました.私はそれから逃れるために,考え,本を読み,話をして,カウンセリングにも通いました.この間,今までなら不可能だったような知識や体験を重ねながらも,絶望は深まるばかりでした.生きる意味を見出せずに死を願いながらも死ぬことすらできない人間の不自由さをなぞり続ける日々・・・そんなことが1年強も続きました.
 ところが突然に,私は自由の一端を掴みました.迷いのために迷惑をかけ続けた教授に頭を下げ,前の研究室を辞去した際に,自己の責任を有限なものに定義したのです.それまでの私は責任とは無限であり,すべて自らの手で決着をつけねばならないと思っていました.しかし,それは考えれば考えるほど不可能なことで,それゆえにゆえに死を願い,私なりにそれと闘いました.その結果が,先生には運が悪かったとあきらめてもらおうという責任転嫁です.しかし,責任を有限にすることで,私は私が果たすことができる責任をとることができるようになりました.善悪に関わらず,できないことをしようとするのは単なるないものねだりであり,それと決別することが,現実に生きることにつながるはずです.


 さて,昔の話は終わりました.それらを踏まえた私の「自由」についてお話します.「踏まえた」といっても,それまでの私の悩みからは唐突に思われるかもしれません.実は,私もそう思います.しかし,紛れもなくこれは連続した私の過程なのです.ところで,私の言う自由は,その本来の意味である「自らに由る」です.そのように自由を考えようとするときに避けられないのは,「自ら」の根拠です.これは,「生きる意味」と言いかえることができるでしょう(ここで昔の話とつながってきます).それを考えてみたら,「意味」とは突き詰めていくと際限なく続く始まりのないもので,つまり虚無でしかありませんでした.「虚無」であること,このことが不自由と並ぶ私のもうひとつの絶望でした.しかし,これは長い時間をかけて希望に変わりました.虚無であるがゆえに好きなように決めることができる,それは絶対的な自由です.そのとき私はこの「虚無」に「空」と勝手に名前を与えました.そして,「空」は私の自由の源泉になりました.
 このようにして私は自由になることができましたが,それは一段階目のかりそめなものに過ぎませんでした.一段階目の自由を実現しようとする新たな段階として,私は自己の閉塞を願うようになりました.これはすでに数ヶ月の間続いていますが,その成れの果てが冒頭の無様な私の姿です.昨日までは以前見たアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』を再び見ていましたが,どれだけ多くの人々がこの主人公たちに自分を重ねたのでしょう.自分が人と言えるのかと思っている私も結局は多くの人々と同じ道をたどり,良かれ悪かれ私も人間だったのだと再認識させられました.再び,私という概念は溶けて境界を失い,否定し無視しようとしていた苦しみとか悲しみとかの感情を受け止められそうな気分になりました.


 そして今日,どうにも眠れなかった私は,1年ほど前に読んだ本(『人生に意味はあるか』諸富祥彦,講談社現代新書)をぱらぱらと読み返していました.すると驚くべきことに,当時ぴんと来なかった言葉が今では私の考えたことそのものであったり,それがこれからの方向かもしれないと思えたりして明け方までげらげらと笑いながら読み直しました.そんなことをしているうちに夜が明けてしまったので,さまざまな言葉を借りながらこんな駄文を書いています.私はやはり自由でした.人間は望んだように世界を実現できる存在です.ある人は自ら「物語」を生み出し,またある人は他人の「物語」を信仰し,これをもとに自らをカンバスにして世界を描こうとするのだと思います.私は私の信じる物語を歩いてみるつもりです.
 私は次の段階のために,この本で仕入れたキーワード(ニーチェの「永劫回帰」,禅の「有の否定としての虚無をも否定した立場」としての「空」)について少しかじってみようと思っています.最後に,私は無学なので何かと間違ったことを言っているかもしれませんが,今はそれでもいいと思っています.次の自分のために,この恥ずかしい文章をあえてこの場に残します.長文になりましたが,ありがとうございました.それでは,また.