境界線を跨ぐ

探し物のこつ

何か無くしものをしたとき,私は往々にして「無くなった」とか「どこかへ行った」などと言いつつそれを探す.しかし,モノに足は付いていないので,落っこちたとか誰かが持ち去ったのでなければ,基本的には自らの意志でどこかに置いたはずだ.つまり,「無くした」であり「どこかへやった」である.このように思考を変えた場合,探す場所が変わってくる.前者ならば家具の裏や下など,自分の意志で置きそうにない場所を探す傾向があると思われる.しかし,後者ならば定位置でないどこかに何気なく置いてしまった可能性が高くなるので,それがあってもおかしくないまたはあるのが合理的な場所や,最後にそれを使ったときに手が届きそうな場所を探すようになる.今日は仕事中に2回探し物をしたが(一つは自分が,もう一つは他の人が無くした),いずれも後者的な探し方で見つかった.少し頭をやわらかくすると見えなかったものが見えるようになる好例かもしれない.

異世界交流

上に続いて,視野を広げる話.ふとんにくるまって目を閉じて空想をしていたら,自分の願望,目的,意義,道徳,権利義務,好き嫌いなど(いわゆる「価値」?)は,この世界のとても狭い範囲の内側にひしめいているのだという感覚に襲われた(そもそも私は自分の認識が及ぶ範囲が「世界」なのだと思っているが).
話はそれるが,今日の仕事で同僚が,お客さんに理不尽なことをいわれたとこぼしていたが,そのときは自分も憤慨した.しかし,それは相手と自分が異世界にいるにも関わらず,自分の世界観を相手も持っているだろうという思い込みと期待を無意識に持ってしまうことにより生じるギャップまたは異世界同士の境界線に感じるストレス(壁に近づくと感じる圧迫感みたいなもの)なのかと思う.その点で,「今の若者は…」などという考え方と同じだ.年齢のギャップは若者の責任と言い切ることはできないし,また,高齢者の責任を否定しきれるものでもない.
そのようなギャップを感じたとき,私のようにただ憤慨したりギャップを嘆いてみたりするのではなく,異世界の境界線に立っていることを意識したい.主観にとらわれすぎず,客観的にそれを見ることができればとても面白い状況が生じているはずだ.文明の出会いと衝突などすでに歴史になっている事柄を想像すればよい.それらがより深化した現代を創り上げたことは間違いない.その状況に遭遇して最初のうちはやはり圧迫感を感じてしまうだろう,しかし,客観的立場に立ち境界線を意識することで,その状況は非常に貴重な経験を与えてくれるし,何よりも柔軟な思考,対処ができるようになる.その意味で,場合にもよるがこのような状況も歓迎すべきことなのかもしれない.
最初のふとんの中に戻るが,あの感覚は,一人でこの境界線を引っ張ったり押したりして感じたものなのだろう.それは旅に出た漠然とした開放的な気分と寂寥感が混じり合った感覚.「旅」,それは日常とは異なる場所と時間を過ごすこと.相手とのギャップに異世界を感じる連れのいる外側向けの旅,思考という内側向きの一人旅,いずれも日常という名前の自分から出発する旅のようなものだ.さて,眠くなってきた.これから今日も私の中へ旅に出るとしよう.